サボりたいことと言えば洗い物

 どうも。最近手足の乾燥に困っています。むーよしです。

 

 

 今週のお題「サボりたいこと」。私がサボりたいのは洗い物ですね。特に夕食。

 洗い物に限らず,私は夕食を食べた後はリラックスタイムにしたくて,作業をするにしてもパソコンや書類に向かうくらいにして,肉体労働はしたくないんです。

 …なんですが,食べ終わった食器を洗うのは,必ず食後にやらなきゃいけないんですよね。

 翌日に持ち越したって時間があるとは限らないし,汚れの度合いや種類によっては1日経つと落ちにくくなっちゃうし,口に入れるものに関係する物は衛生的であって欲しいしで,夕食後にやるしかないわけですが面倒くさい。

 

 やり始めてしまえば簡単に終わることも多いですけど,やっぱり「よし!洗い物やろう!」って気分はわかないことがほとんどです。本音を言えばサボりたい。でもサボれない。もどかしい。

 

 サボることが許されずとも,せめて時間がある時や日中に「洗い溜め」とか出来るように何とかならないものでしょうかね?
 誰かそういうシステムを開発してくれないかなぁ。何てぼやきながら今日はここまでにします。

 

 

それでは,また。

「今を大事に生きろ」に思うこと

 

 私は計画的に物事を進めるのが苦手です。

 昔から今目の前にある楽しそうなことをやり始めるばかりでその後のことを考えていないことが多いのです。だから,やることが終わったり飽きたりすると突然にやることが無くなってしまい,無気力に陥ってしまう。それで済めばまだよくて,大体の場合はやるべき課題を後回しにしてしまったツケを払うことになって大変なんですよね。
(要は夏休みの宿題を最終日近くで大変な思いをしながらやるタイプということです)

 

 誤解してほしくないのは,計画を立てることそれ自体はわりと好きです。
それぞれの課題にかかる時間や労力を計算して,『奇麗な計画書』を作るのはとても楽しい。
 私が苦手なのはそこから先です。ついついゲームが面白くって夢中で遊んでしまったり,読んだ本が面白くて関連図書まで読み始めたり,ちょっとした無くしものをきっかけに大掃除を始めてしまったりして,計画通りに進まないんです。

 結局私は「未来の自分のため」と「現在の自分のため」の折り合いを上手につけることが出来ないんです。どっちかに大きく偏ってしまう。主に現在の自分に。

 


 昨今「今を生きろ」「今楽しいことをやることが大事なんだ」的なメッセージを著名人の方が発信していたりもしますね。確かに未来だけを見て現在をないがしろにすれば辛いだろうなと思います。社会的には将来のことを考えて行動することが是とされているので,「未来の自分のため」に縛りつけるプレッシャーたるやそれはそれはすさまじいものでしょう。

 でも,そもそも未来に生きることが出来ない私としては,将来のことをきちんと考えて未来のために頑張れる人間はとても尊敬するし,うらやましかったりもするのです。

 

 もちろん辛いことを我慢して生きろというつもりはありませんが,先に挙げたようなメッセージを見る度に「そんなに未来の自分のために頑張ることを悲観的にとらえなくても良いんじゃないの?」って思ってしまいます。

 「今が辛いならもうちょっと今を大事に生きてみても良いんじゃない」くらいでいいんじゃないかなーと考える次第です。

 

 

それでは,また。

 

今日はいつもよりマシに生きることが出来ました

youtube断ちの日曜日を過ごしました。むーよしです。

 

その甲斐もあって,今日はいつもよりマシに生きることが出来ました。

って言ってもいつもがひどいんです。毎日毎日,寝る,食べる,動画見る,ゲームする,散歩する,くらいしかしてないので。書いてて恥ずかしくなってきた。

 

ですが!今日は,読書とヨガをやりました!生産的な行動が増えたよ!やったね!

 

まぁもともとがひどいので,世間一般で見ればまだまだ自堕落の極みみたいな生き方です。「もっとちゃんとしろ」ってお叱りを受けるような状況であることは否めません。ただ,それでもいつもよりうまく行った時には「うまくいったぞ!」って自分で自分をほめてやるくらいのことはしないとモチベーションの維持なんてできないので,「頑張ったぞ」って堂々と言おうと思います。

 

今日,私は頑張りました。

 

毎日を生きるうえで,意図的に行動のハードルを下げることは大事です。あまりハードルを上げてしまうと行動を起こす前から気持ちがなえてしまってやらずじまいになってしまう。それならいっそ効率が悪かろうが何だろうが,自分の中のハードルを下げて出来ることを少しでもやる方が良いと思ってます。
勉強をしなくても,とにかく勉強机の前に座って時間を過ごす。新しいことにチャレンジは出来ずとも,とにかくSNSから距離を置いて時間を作るだけはする。出来るところまでで,「とりあえずここまではする」と決めて,実行出来たら自分をほめる。その積み重ねでしか,少なくとも私は進めません。

 

今日私は『youtubeを見ない』を実行し,成功しました。だから自分をほめます。他の人がどう言おうが知ったことじゃありません。やらなきゃいけないことが沢山あることは知っています。それをやらないと冷たい視線が注がれることも知っています。でも知っているからと言って最初からすべては出来ないのです。今の自分に出来ることしか今の自分にはできません。今の自分に出来ることを精一杯やったならそれは凄いこととするしかないんです。だから何度でも言おうと思います。

 

今日,私は頑張りました。

 

 

それでは,また。

 

 

※本文中,youtubeの動画を見ることが悪いことであるような言い回しになってしまっていますが,決してyoutubeの動画を見ることが非生産的な行動だと言っているわけではありません。勉強になるものや心の癒しを届けてくれるもの,刺激的な毎日を演出してくれるものが沢山あることはよく知っています。ただ,私の場合は必要以上にそこに時間をかけてしまい,自分で自分の時間や労力を削ってしまっているという自覚があっただけのことです。ご了承ください。

 

人間は基本的にポジティブな方向性を持っている

本はきれいに読みたい派。むーよしです。

 

今日のタイトルは「人間は基本的にポジティブな方向性を持っている」。
これはC,ロジャーズという人の言葉です。

ロジャーズはカウンセリングの大家で、臨床心理学に関わる人であれば名前を知らない人はいないと思います。

 

 

そんな彼はカウンセリングに対してある「仮説」を持っていました。それは,

 

全ての人間は,自分自身のなかに,個人的にも満ち足りた,社会的にも建設的な方向に,自らの人生を導いていく能力をもっている。ある特定のタイプの援助関係のなかで,私たちは,その人間が自由にみずからの内面の知恵と自信を発見していくように援助することができる。その人びとは,ますます健康で,ますます建設的な選択をするようになるであろう。

 

というもの。

 

 

ロジャーズはこの「仮説」を生涯にわたって検証していくわけですが,この仮説は私にとっては結構感動もので、大事にしたいと思っている価値観でもあります。

世の中は複雑です。何が正解かは良く分かりません。自分に自信が持てなくなることもよくあります。でも,自分の中に自分をより良い方向に導くことのできる力があるんだと思うと,なんだかちょっと頑張れる気がしてきます。

他人に対しても,教え諭して何とかしようとすると,うまくいかない時に「こんなに私が頑張ってるのに!」ってなりますけど,「私はちょっとお手伝いが出来たらそれでいい。そのあとは本人の中でうまくいく方法を見つけていくでしょ。」って思っておくと私の気持ちにもゆとりが出来ます。

 

 

「人間は基本的にポジティブな方向性を持っている」

 

正しい生き方を決めるでもない。その時々で楽しいことをやっていろという訳でもない。自分の内にある知恵と自信を発見し,より良い方向へと自分自身を導いていく生き方。そんな生き方をしていきたいと思っています。

 

 

それでは,また。

 

 

参考図書

ロジャーズ選集(上):カウンセラーなら一度は読んでおきたい厳選33論文 | カーシェンバウム,ハワード, ヘンダーソン,ヴァレリー・ランド, 博, 伊東, 正治, 村山 |本 | 通販 | Amazon

自分は何を書きたいのか探求

最近「世界史を大きく動かした植物」という本を読んでいますが面白いです。むーよしです。

 

今日は半分以上自分の記録用です。ご了承ください。

この記事が何かといえば,ブログに何書いて良いのか分からないというか,ネタを思いついてもしっくりこないまま時間がたっていくので,この悩みをブログに書きながら考えてみようという行き当たりばったりの賜物でございます。

 

という訳で,とにもかくにも思いつくままにネタを挙げてみます。

・「世界史を大きく動かした植物」という本

車いすラグビーのパンフレットが届きました。

・心理学という人の感情を論理的に説明しようとする学問

・人の話を聞いた気になっている人の話

・「した方が良い」と「しなきゃいけない」

・努力はしなきゃいけないことなのか

・何もうまくいかない時の過ごし方

・向いてない仕事

・趣味は散歩です

・アニメってデジタルで販売できないんだろうかって話

 

ざっと例を挙げてみました。この羅列を見て私は思いました。

 

エネルギー余ってるんですね,私。

 

でもそのエネルギーを何に向けて良いのか分かんないまま悶々としている。それが空回りして,気に入らない人や環境に怒りを向けてみたり,「そもそも頑張る必要ってあるの?」って斜に構えたりしているんだろうと思います。

他の話も読書やら勉強やら散歩と,エネルギーのはけ口としてはあんまり役に立たなさそうだし,根本のところで欲求不満で,その結果,何事にも中途半端って感じでしょう。そういう状況ならば,そりゃ何の記事を書こうとしてもしっくりこない。だって誰かにこれを話したい!っていうほどの熱量が無いんですもん。

 

なるほど。自己完結しました。

これを他人様に見せようとしている自分の感性を疑ってしまいますが,もともと思いつきなので公開しようと思います。

 

自己満足記事にお付き合いいただきありがとうございます。

万が一考え方のヒントとかになってたらうれしいです。あと,私とは違う解釈をされた方がいらっしゃいましたらお教えいただけると励みになります。

 

 

それでは,また。

効率の良い努力について考える

久々に占いというものを受けたら,努力をしても成果に繋がらない年回りだと言われました。むーよしです。

 

まぁ確かに,ここ最近「うまくいってない感」はあったので当たっていると言えば当たってるんですよ。
ということで,この機会に私なりに効率の良い努力とはどんなものかちょっと考えてみることにしました。

 

まずは定義から。「効率が良い」とは何か。
これは「叶えたい目標や達成したい成果に対して,達成するために必要な時間や労力のコスパが良いこと」って感じでしょうか。最小限の時間・労力・費用などによって最大限の成果を出すことが効率が良い努力と定義できるかもしれません。

 

でもこれって無茶苦茶難しいんですよね。世の中にはやってみないと分からないことや,正解のないものなんてたくさんありますし,趣味でやっていたことがいつの間にか役立っていたなんてこともありますから,どこで何が活きてくるかなんて予想は立てづらいものです。

となると,最初から最大効率を求めるよりも,色々やってみてから振り返って,取捨選択しながら効率化していくっていうのが現実的な気がします。思い立ったが吉日でやってみることが出来る準備を整えておくことも重要かもしれません。

 

そして,そもそも目標設定自体も自分で振り返って成果を確認できるものにしておかないと(効率化が図れないので)いけませんね。人間関係とか,あまりにスケールの大きい目標に向けた努力は「効率の良い努力」からは外れてきそうです。

 

まとめると,

①「まずやってみる」を実現できる準備をしておく

②やってみたことを振り返って効率化していく

③成果の振り返りがしにくい目標を設定しない

このあたりがポイントですね。

 

 

以上が現時点での私の「効率の良い努力」についての考えです。あまり日常に効率ばかり求めても楽しみが無くなってしまうような気もしますが,ちょっと考えてみました。

みなさまはどんなお考えをお持ちでしょうか。

 

そっれでは,また。

車いすラグビーを見て考えた,「私は障害者の人に向かってタックルできるか」という疑問

暑いのか寒いのかはっきりしてほしい日が続きますが,みなさまはどうお過ごしでしょうか。むーよしです。

 

私,実は先のパラリンピックから車いすラグビーに魅入られていて,昨日やっていた車いすラグビー日本選手権大会予選リーグの配信も見ていました。

 

改めてやっぱり面白くって,時間の使い方とか車いすという特性の活かし方にすごく戦略性があって,そこに思いっきりタックルしあうっていう力押しの要素もあって感心するんです。

 

それで機会があったらちょっとあの車いす乗ってみたいなーとか考えるんですよね。ちょっと車いすラグビーを体験してみたいと。

そこまで考えて,疑問を持ちました。

「仮に車いすラグビー体験会なるものがあったとして,私は車いすを思いっきり漕いで選手の人にタックルしに行くことが出来るのだろうか」と。

 

何が引っかかるかって,『健常者』である私が『障害者』である選手に体当たりをするという行為に対して違和感を感じる訳です。

ろくにトレーニングなんてしてない私が一生懸命車いすを漕いだところで選手の皆さんが普段受けているタックルに比べればかわいいものでしょう。タックルを受けることにしたって選手の側は慣れています。特段大したことじゃない。何より体験会で向こうが用意してくれているのに,失礼も何もありゃしない。やらないことの方が失礼でしょう。

それは頭で分かっている。

けれど引っかかる。「そんなことして良いはずないだろ」と私の中の倫理観のようなものが囁くんです。

 

私は彼らを『弱者』として見ているのでしょうか。そうかもしれない。それを否定する材料は特にない。でも,タックルできない(かもしれない)ことが,私が彼らを弱者とみている証明だと言われてもなんか納得できない。

そして,この社会で生きていく上で障害があるからこそ彼らは『障害者』であるのだから,ある一つの面で私の方が恵まれているとは言える。となると恵まれているものが恵まれていないものを助けるべきだという倫理観,道徳観で言えば私は彼らを助けなければならない。

でも,彼らにタックルをしないことが彼らの助けになるとは思えないし,見ず知らずの人間に弱者だと決めつけられるなんてことは彼らにとって屈辱的なことだろうと思う。

 

結局のところ答えは出ません。堂々巡りになっています。なんなら実際にタックル体験に行ったとしたら,ここまで書いたような小難しいことなんて一切考えずに,「それー!」って普通にタックルしてるような気もするんですよね。ただ,私の心はまだ、弱者を労ることと、強者を讃えることの区別がついていない。そんなところが現時点の結論の様な気がします。

 

 

いつも以上にふわふわとした文章になってしまって申し訳ないです。ただ、今の私に出来る最大の言語化でした。拙い文章にお付き合いくださり、ありがとうございました。

 

それでは、また。