戦国高校に出てくる武将達がどんな人達か調べてみた③(パワプロアプリ)

 

やたらと早く梅雨に入ったと思ったら,そんなに梅雨っぽくない日も結構あってなんだか最近は季節感狂いますね。皆さんはどうお過ごしでしょうか。

 

さてえらく時間を空けてしまいましたが,本日は戦国高校に出て来る武将について調べてみたの最終回となります。

よろしくお願いします。

 

 

豊臣秀吉

1537-1598 尾張(現愛知県)

 信長の後継者として天下を統一した「戦国一の出世頭」。貧しい農家に生まれ,14歳の時に武士になることを宣言して家を出て,商人をしたり,今川家に仕えたりした後,信長の馬の世話をする仕事につきます。信長のために懸命に働いた秀吉はついに武士となり,墨俣一夜城を成功させるなど武功をあげ,信長の重要な家臣となりました。信長が明智光秀に討たれた後は信長の後を継ぎ天下をとることを誓い,実際に並み居る大名を次々に従わせ天下を統一しました。相手を自分の味方に引き込んだり,兵糧攻めを行ったりと直接戦う以外の行動を得意としたことも短期間で天下統一を果たした理由だと言われています。天下統一を果たした後は,豊臣平和令(※)と呼ばれる国内における私的な武力抗争を抑制する政令を出し,治安を守りつつ反乱を抑止しました。

※惣無事令,刀狩令,喧嘩停止令,海賊停止令などをまとめて豊臣平和令と呼ぶ。

 

 

長宗我部元親

 1538-1599 土佐(現高知県)

 「姫若子」(ひめわこ)から「鬼若子」に覚醒した武将。幼少の頃は、長身で色白な優しく大人しい子だったため,軟弱ともうつけ者とも評される性格から「姫若子」と揶揄されており、父親が跡継ぎとしてふさわしいか頭を抱えるほどだったそうですが,いざ戦になると槍で敵兵を見事に突き崩し、「鬼若子」「土佐の出来人」と賞賛されました。
 家督を継ぐと武将として覚醒し,土佐をあっという間に制圧。さらに,領地を農民に渡し,普段は農民で合戦があると駆けつける半農半兵の「一領具足」と呼ばれる忠誠心のある農民の兵を作り上げ,四国制覇のために動き出します。時の有力者織田信長もはじめはこれをよしとしていたものの,信長の気が変わり信長との対立抗争となります。全面戦争も覚悟した元親でしたが織田軍が四国に攻め込む寸前に本能寺の変で信長が死去。そのすきをついて阿波,讃岐に攻め込み四国統一を果たしました。

 

徳川家康

 1543-1616 三河(現愛知県)

 江戸幕府を開いた人。生まれたころは東に今川義元武田信玄,西に織田信長,北に上杉謙信と周りを有力大名で包囲され,小領主ではありましたが,今川の支配下に置かれていました。しかし,桶狭間の戦い織田信長今川義元を討ち取ります。その後信長からの自分の味方につかないかという誘いに乗り,信長と同盟を結びました。その後,家康の長男・信康が裏切者であるとして信長から切腹を命じられても,家康は信長に従い続け協力を続けます。信長の死後は,紆余曲折あって秀吉のもとにつきます。秀吉が天下統一を果たすと,家康は関東地方を治めるよう命じられ,京都からは遠ざかったものの広い領地を治めることになりました。広い領地を得て力をつけた家康に秀吉は自分の死後,息子の秀頼を助けてくれるよう頼んでいたそうです。しかし家康は結局自分が天下人になるため動き出し,関ヶ原の戦い石田三成を破ると征夷大将軍となり,江戸幕府を開きました。

 

本多忠勝

1548-1610 三河(現愛知県)

 57回の合戦でかすり傷ひとつ負わなかったという伝説の残る武将。「徳川四天王」とたたえられた武将の一人で,蜻蛉切と呼ばれた6メートル以上の長さの槍を使いました。関ヶ原の戦いでは合戦はもちろん大名たちを家康の味方に引き入れることでも活躍し,江戸時代には桑名藩(現三重県)の初代藩主を務めました。

※他に酒井忠次榊原康政井伊直政

 

伊達政宗

1567-1636 出羽(現山形県

 東北地方を支配した独眼竜。子どもの頃に重い病気にかかり右目の視力を失い,そのために母からも愛されませんでした。伊達家を継いだ政宗は周囲の大名に戦いを挑み,人取橋の戦いでは大敗するもめげずに戦いを続け,東北地方の3分の1を支配するに至りました。
 そこに,豊臣秀吉から豊臣軍に参加して小田原城の戦いに参加するようにと命令が届きます。これに参加することは,秀吉に従うことを意味するので政宗は悩むのですが,片倉小十郎の進言もあって豊臣軍に参加することを決意します。しかしそのタイミングでこともあろうに母親に毒殺されかけます。弟に家督を継がせようとする行動でした。直後政宗は弟を殺し,伊達家内の混乱を収めましたが,小田原城の戦いへの参加は遅れてしまいます。秀吉は怒り,政宗を処刑するつもりでいました。しかし,秀吉が政宗と面会すると,政宗は髷を落とし白装束を着て秀吉のもとに現れました。覚悟を見た秀吉は政宗を許し,後には朝鮮出兵などにも会参加させています。

 

 片倉小十郎片倉景綱

 1557-1615 出羽(現山形県

  政宗から誰よりも信頼された参謀。神主の子として生まれた片倉小十郎は19歳での時,伊達政宗に仕えることになります。政宗は病気で見えなくなった右目を小十郎に抉り取ってくれと頼み,小十郎は右目を抉り取ったと伝えられています。小十郎は合戦に政治にと政宗を支え,秀吉から家臣になって欲しいと頼まれても断り,一生を政宗のもとで過ごしたと言います。

 ※鬼の小十郎と呼ばれるのは息子の重長であるため,戦国高校の片倉小十郎はこちらである可能性がありますが,一般的に有名な片倉小十郎は初代でもある景綱ですので,ここではこちらを紹介させていただきました。重永は大坂夏の陣にて大きな武功を挙げた人物です。

 

終わりに

 いかがだったでしょうか。もうパワプロアプリでは戦国高校は過去のものとなっていてなかなか注目もされませんが,今まで機械的に倒していた武将・大名たちが一体どんな人たちであったのかということを少しでも知ると,また少しゲームが面白くなると思って執筆を始めました。ずいぶんと時間をかけてしまいましたが,ひとまず書き切ることが出来てホッとしています。稚拙な解説ではありましたが,皆さんのゲーム生活に少しでも貢献できたならうれしく思います。

 

それでは,また。

 

過去の記事はこちら

 

mooyoshi.hatenablog.com

 

mooyoshi.hatenablog.com

 

 

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参照文献

Wikipedia  Wikipedia

戦国武将一覧 戦国武将一覧 (hikak.com)

富増章成(2017) 超訳戦国武将図鑑  かんき出版

矢部健太郎(2015) 超ビジュアル!戦国武将大辞典 西東社